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更新日:2016年2月12日

武田家と真田信繁(幸村)~「日ノ本一の兵」の赤いルーツを探る~武田氏と真田氏編

2016年のNHK大河ドラマは「真田丸」。主人公の真田信繁(幸村)は、祖父の真田幸隆の代から武田信玄に仕え、父・昌幸も武田家の家臣であり、武田家とゆかりのある人物です。この武田家と真田家の関わり合いや両家にゆかりのある山梨県の観光スポットなどを5回にわたって紹介します。
第1回目は、武田氏と真田氏の関係について紹介します。

武田氏と真田氏

智略に優れた真田、代々武田を支える

武田と真田の関係は、武田信玄の時代から始まった。信玄の父・信虎の時代、武田と真田は敵対関係にあった。しかし、信虎を追放し武田の家督を相続した信玄は、真田幸隆(信繁の祖父)の智謀を見込んで武田の家臣にした。
幸隆は信玄が攻略できずにいた戸石城を、調略によりわずか1日で落とした。この功績により、幸隆は新参の外様でありながら信玄の信頼を勝ち取り、数々の特権が与えられ、
「戦国時代、全国的にみても敵対関係にあった相手国に亡命し、さらに旧領を回復したばかりか、のちに真田の中心的領地となる上田の領地まで与えられたのは実に珍しいこと。智略に優れた武将だった」と真田研究の第一人者で、NHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当する平山優氏は言う。
後に真田家三代目を継ぐことになる幸隆の三男・昌幸(真田信繁の父)は7歳の時、人質として甲府に送られていた。「人質といってもそれは名目上で、上田の領地を与えられた幸隆が、信玄への忠誠心の証として自ら人質として出したのだ」(平山氏)。昌幸はその優秀さからすぐに信玄の近習となり、期待どおり信玄を支えた。
しかし昌幸は三男だったため、一度は信玄の母方の支族である武藤家を継ぐ。だが長篠の戦いで当主の長兄信綱、次兄昌輝が討死。昌幸は武田一族として真田の当主となった。
この頃、武田家は既に信玄が亡くなり、勝頼の時代へと代わっていた。信玄が亡くなる少し前、真田家では信繁(幸村)が誕生した。しかし真田が仕える武田は、その後、滅亡の道を進むことになる。

真田幸村は本当の名ではなかった!?

真田幸村は、実は「信繁」が本当の名前である。信繁の父・昌幸が尊敬していた武田信玄の弟・信繁にあやかって付けられたと言われている。幸村という名で呼ばれるようになったのは、真田信繁が亡くなって50年ほど経ってからだ。講談で大人気となった『難波戦記』でその名が登場し、以来、幸村の名が広く知られるようになったのだ。

昌幸は南アルプス市で暮らしていた!?

真田昌幸が継いだ武藤家は、信玄の生母・大井夫人の実家の一族である。武藤家の屋敷はかつて南アルプス市荊沢~落合のあたりにあり、昌幸も若い頃、その地で暮らしていたかもしれないという。荊沢にある阿弥陀寺は、武藤家の菩提寺である。

平山優(ひらやま・ゆう)
昭和39年、東京都生まれ。立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了。山梨県史編纂室主査、山梨県立博物館副主幹などを経て、現在は山梨県立中央高校教諭。両親が武田勝頼の最後の地である甲州市大和町田野の出身で、子どものころから武田家の話を聞いて育つ。小学4年の自由研究で勝頼を研究。以来、武田研究を続けている。武田家滅亡後の研究の中で真田昌幸に着目し、真田研究に取り組む。大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当。

武田家と真田信繁(幸村)~「日ノ本一の兵」の赤いルーツを探る~ 連載

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