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武田信玄は、大永元年11月3日、武田信虎の嫡男として甲府で生まれた。幼名は勝千代といわれ、仮名を太郎と称した。長じて、室町幕府将軍足利義晴から一字を拝領し晴信と名乗った。
父信虎は専横の振る舞い多く、領民は塗炭の苦しみをあえいでいたといい、これを目の当たりにしていた晴信は、天文10年(1541)6月、家臣らと協議して、父信虎を駿河今川義元のもとへ追放した。息子が父を追放するという未曾有のクーデターによって、武田氏の当主交代が実現された。この時、晴信21歳、信虎48歳であった。
晴信は、父追放の翌天文11年に諏訪頼重を滅ぼし、伊那、佐久郡の中小領主を屈服させた。その後、天文17年2月、埴科郡の強豪村上義清と上田原で戦って初めての敗戦を喫したが、7月塩尻峠の合戦で信濃守護小笠原長時を打ち破り勢力を盛り返した。
晴信は、天文19年にも村上義清の属城戸石城を攻撃して敗れるが(戸石崩れ)、同21年(1552)に小笠原長時を、同23年には村上義清を追放し、信濃制圧をほぼ確実にした。しかし、村上義清らの懇請により、越後長尾景虎(上杉謙信)が武田晴信に対抗すべく南下を開始したため、武田氏と上杉氏は、北信濃川中島を舞台に、天文22年から永禄7年(1564)までの12年間にわたり、前後5回に及ぶ戦いを繰り広げた。これが世にいう川中島の戦いである。最も著名な戦いは、永禄4年9月10日に行われた第4次川中島の戦いである。だがこの戦いで、武田氏は上杉氏の南下を食い止め、信濃制圧にほぼ成功した。
晴信は、永禄2年に出家して信玄と号し、永禄4年から9年にかけて、上杉領の上野国西部(西上野)を制圧し、同11年(1568)から元亀2年(1570)にかけて、衰退著しかった駿河今川氏真を追放し、さらに北条氏康、徳川家康と戦って、駿河国を制圧し、その勢力を東海地方にまで拡大した。
その後信玄は、将軍足利義昭らの要請を受けて、織田信長を撃破し、上洛することを決意した。そこで信玄は、越前朝倉義景、近江浅井長政らと同盟を結び信長包囲網を形成すると、元亀3年10月、大軍を率いて甲府を出陣した。信玄は12月、三方原の合戦で徳川家康軍を撃破したが、このころから、信玄は体調を崩し、元亀4年1月、三河野田城を攻略したが病状は重篤となり、もはや西上作戦を継続することは不可能となった。
武田軍はやむなく4月、帰国の途についたが、12日、信玄は信濃国駒場で陣没した。享年53歳。信玄は、死に臨んで後継者勝頼を枕頭に呼び寄せ、3年間は自分の死を秘匿することや、対外戦争をしかけることなく国力を整え、情勢が武田方にとって好転するのを待つように遺言したという。
武田家は、清和天皇を祖とする清和源氏の流れを汲む名族の出身で、源頼義の子新羅三郎義光(八幡太郎義家の弟)の子孫にあたる。武田氏は、常陸国那珂郡武田郷に拠点を構えた、源義清(義光の子)が、息子清光とともに、甲斐国市川荘に移されたのが始まりであり、この子孫は甲斐源氏と総称された。なお、源義清・清光父子は、すでに常陸国在国時代には、在地を名字とし、武田氏を名乗っていた。その後、鎌倉幕府の創設に功績のあった清光の子信義が武田氏を継承し、甲斐源氏の中心的地位を確立した。武田氏は鎌倉期から、ほぼ一貫して守護の地位を保持し、室町期には関東管領上杉氏との縁戚となることにより、関東の諸大名の中でも極めて有力となった。
しかし、応永23年の上杉禅秀の乱に荷担したことから、武田氏が鎌倉公方から追討され、甲斐は守護不在となった。後に、室町幕府は武田信重を甲斐守護に復帰させている。信重は混乱していた甲斐をまとめきれないまま宝徳2年(1450)に戦死し、後継の信守も康正元年(1455)に夭折したため、幼少の信昌が9歳で家督を相続した。信昌は岩崎氏等の武田一族に護られて成長し、父信守死後、守護代跡部氏を寛正6年(1465)に滅亡させ、甲斐統一にほぼ成功した。その後信昌は、逸見氏などの反乱を鎮圧し、室町幕府にその実力を認められた。
だが信昌は晩年に惣領職を嫡男信縄ではなく、その弟信恵(油川氏)に譲ろうとしたため、信縄と激しく対立し、遂に内戦を引き起こしてしまった。信昌・信恵と信縄の抗争は、明応7年(1498)和睦によって終結し、家督は信縄が継承することで落ち着いた。永正2年(1505)9月に、信昌が59歳で病没すると、信縄は名実ともに甲斐守護の地位を確立するが、病気がちであった信縄も、同4年2月に病死した(享年39歳といわれる)。このため、嫡男信直(大永元年ごろ信虎と改名、以下統一)が家督を相続した。この人物こそが、信玄の父武田信虎である。
この時信虎は、わずか14歳であったが、叛乱を起こした叔父武田(油川)信恵を滅亡させ、郡内(都留郡)の国人衆小山田弥太郎らを戦死させた。永正16年(1519)には甲府を開設し、天文元年に甲斐統一を達成した。
以後、信虎・晴信(信玄)・勝頼三代にわたって戦国の世にその名を轟かせたのである。

平山優(ひらやまゆう)氏
1964年東京都出身
歴史学者
立教大学大学院文学研究科博士前期課程史学専攻(日本史)修了
山梨県埋蔵文化財センター、山梨県史編纂室、山梨県立博物館、山梨県立中央高等学校を経て、山梨大学、放送大学非常勤講師を歴任
現在、健康科学大学特任教授、甲州市文化財審議委員、南アルプス市文化財審議委員、岡山市戦国宇喜多家を継承する会等のアドバイザーをつとめている。
著書『戦国大名領国の基礎構造』で第24回野口賞受賞(2000年)。
『武田信玄』(吉川弘文館)、『山本勘助』(講談社現代新書)などでNHK地域放送文化賞受賞(2007年)。
1988年NHK大河ドラマ「武田信玄」時代考証の資料提供
2016年NHK大河ドラマ「真田丸」時代考証
2021年映画「信虎」武田家考証
2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」時代考証を担当。
著書は『戦国大名領国の基礎構造』(校倉書房)、『川中島の戦い』学研M文庫、『武田氏滅亡』『戦国大名と国衆』(角川選書)、『戦国の忍び』(角川新書)など多数。
近著に『武田勝頼』(戎光祥出版)、『小牧長久手合戦 秀吉と家康 天下分け目の真相』(角川新書)『新説・家康と三方原合戦』NHK出版、『徳川家康と武田信玄』(角川選書)等がある。