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更新日:2023年2月14日

八田家書院

信玄公が愛した山梨に残る徳川家康の足跡 #4 八田家書院

ドラマで話題の徳川家康。武田家の家臣を多数重用していたことも知られています。今回は、武田家滅亡後に家康に従った笛吹市石和町の八田家、そして今も残る八田家書院をご紹介。全国でもあまり例のない江戸時代初期の建物で山梨県指定文化財に認定されています。実は歴代将軍に○○された全国で唯一のスポット!魅力満載の八田家書院に迫ります。

八田家とは?武田家と徳川家との関係は?

八田家は八田(現在の笛吹市石和町八田)に住んでいた有力な武家であり商人。武田家には蔵前衆(くらまえしゅう-年貢を集めて武田家に納める役目を持った人々)として仕えていました。信玄公の代から仕えていて、その仕事を認められ信玄公の息子の勝頼からは『朱印状』(将軍や武将が領地を与えるなど特別な権利を許可する際に朱印を押して発行した書状)を拝領したそうです。

武田家が滅亡し本能寺の変が起こると、山梨は統治する大名がいなくなり混沌とした状態となります。徳川家康が北条氏との争いに勝利することで山梨は家康が治めることとなりました。八田家は家康に従うことで家康からも朱印状を拝領し、武田の時代のまま屋敷や仕事を安堵されたそうです。

八田家御朱印屋敷は歴代将軍に認められた全国唯一のスポット!?

家康から朱印状をもらった八田家。江戸時代には非常に有力な郷士として活躍したそうです。この朱印状、将軍の代替わりごとに前代までの将軍が発行した朱印状を幕府に提出し、それまでの権利を再確認した後に新しい将軍の朱印状とともに元の所有者に返却していました。これを「御朱印改」と呼びます。全国の大名や公家、お寺や神社など約5,000件の御朱印改が行われていましたが、個人の屋敷では全国で唯一、八田家だけが「御朱印改」を行っていました。そのため八田家の屋敷は「八田家御朱印屋敷」と呼ばれていました。

武田勝頼や徳川家康が交付した朱印状の写しは、八田家書院で見ることができます。

八田家書院
武田家朱印状の画像

八田家書院
徳川家朱印状(写)の画像

八田家書院はどのような場所?

八田家の屋敷は1582年に織田信長軍によって焼き打ちにされてしまいましたが、1601年に再建されました。現代に伝わる八田家書院は江戸時代初期に建てられた全国的にも珍しい建物です。また、この書院は徳川家康より拝領した用材で建築されたとも伝わっています。(諸説あり)

八田家書院は、入口の門から非常に伝統があります。入口の門は1661年に代官所(年貢の徴収や犯罪を取り締まる代官が務める場所)として建設された石和陣屋の門を移築されました。

八田家書院
入口の門

 

屋根は古き良き茅葺屋根。中は、三の間(訪問客が待つ場所)、中の間(客を迎える場所)、奥の間(主人の部屋、上客はここで迎えた)と非常にシンプルな作りをしています。

八田家書院
中の間

奥の間には面皮柱(めんかわはしら)という角を丸のままに残し4面に木目を出した柱が使われており、その柱自体も彫刻材としても活用されるネズミサシ(日本の針葉樹の中で最も重硬)が使われています。また、扉には狩野派絵師が書いたと伝わる虎や梅の絵(復元)が使われるなど要所に上品なつくりをさりげなく取り入れており、独特な統一感がある雰囲気を醸し出しています。

八田家書院
面皮柱

手入れの行き届いたお庭は、春はツツジにはじまりハナショウブなどの花々も楽しめ、秋には色鮮やかな紅葉が見る人を楽しませてくれます。(紅葉の見ごろは年によりますがおおよそ11/15~20頃)スタッフさんによると雨の日の紅葉がものすごく雰囲気があるとのことです!

八田家書院-紅葉-01
紅葉は地元でも有名のスポット

八田家書院-紅葉-02
赤く色づいた木々は日本家屋とよく合います

信玄公、勝頼、家康に仕え歴代の将軍にも認められた唯一無二の八田家、そしてその歴史を今に伝える八田家書院。江戸時代の趣を今に伝えてくれるスポットです。今週末は八田家書院を訪れ古い時代に思いをはせてみませんか?

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施設情報

八田家書院

八田家書院

笛吹市石和町八田334

電話番号:055-261-6111

施設の詳細を見る

取材・文/石田

 

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