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1番隊
地理感覚に優れた領域支配の行政官僚
原隼人佑昌胤
(?~天正3年5月21日)
信虎に仕えた譜代家老原加賀守昌俊の子で、武田軍の陣立てなどを立案する陣場奉行を命じられたといわれ、また信玄の側近、奉行としても活躍した。信玄の晩年には、山県昌景とともに、武田家の最高職である両職を担ったとされる。昌胤は地理に精通し、初めての場所でも方角を見失わなかったと伝わる。天正3年の長篠の戦いで山県とともに左翼を担当し、徳川軍と激戦の末戦死した。
参加団体甲府市(青少年育成甲府市民会議育成部会)
2番隊
夜襲が得意で「火車」鬼を打ち取った豪傑
多田淡路守満頼
(?~永禄6年12月)
多田淡路守は、美濃出身の浪人。仮名は三八郎といい、多田三八と略称されることが多い。足軽大将に任命され、信虎以来、数多くの合戦に参加し、感状をもらうこと29度に及び、そのため全身に27ヶ所の疵痕があったという。信濃虚空蔵砦を警固していた時に、現れた鬼を退治したとの伝説がある。満頼の死後は、息子多田新蔵が後継者となったが、長篠の戦いで戦死したと伝わる。
参加団体朝日生命保険相互会社 甲府支社
3番隊
合戦の先頭で武勇抜群の信州先方衆
真田源太左衛門尉信綱
(天文6年~天正3年5月21日)
真田幸隆の嫡男。信玄の命により、父幸隆とともに上野国白井城を攻略し、同じころ、上野国岩櫃城代にも任ぜられ、上杉謙信の南下に備えた。信玄晩年の合戦には、ほとんど参加しており、その功績により、元亀3年には信濃の武士で、唯一、200騎という最大の兵力を与えられた。天正3年(1575)の長篠の戦いでは、弟昌輝とともに、勝頼を逃がすために奮戦して戦死した。
参加団体コニカミノルタグループ
4番隊
剛勇で名をはせた治国の最高責任者
甘利備前守虎泰
(?~天文17年2月14日)
武田氏の譜代家老で、板垣信方とともに両職という最高職に就任していたとされる重臣。甘利氏は、甲斐源氏の支流にあたり、武田氏を支えて活躍した。武田信虎・信玄二代に仕え、100騎を率いる侍大将でもあった。武田信虎追放時には、板垣とともに信玄擁立に尽力した。天文17年2月、信玄が村上義清と戦い、初めての敗戦を喫した上田原の合戦で板垣とともに戦死した。
参加団体韮崎市
5番隊
海津城代として信濃統治の一翼を担う
高坂弾正忠昌信
(大永7年~天正6年6月14日)
高坂弾正は石和の大百姓春日大隅の子で、信玄に見いだされて近習となり、足軽大将に抜擢、永禄3年(1559)ごろ海津城代に任命されるなど、異例の出世を遂げた。長篠の戦いで、同僚の多くが戦死したことに衝撃を受け、信玄の言行や行動哲学などをまとめた書物を書き上げた。これが『甲陽軍鑑』の原本とされる。その後、上杉景勝と勝頼の同盟交渉役に就任したが、実現しないまま病没した。
参加団体笛吹市
6番隊
行政・外交・軍事面の中心的人物
山県三郎右兵衛尉昌景
(?~天正3年5月21日)
武田家の譜代家老飯富氏の出身で、虎昌の弟。信玄の側近、奉行として活躍した。信玄の命により、名門山県氏の名跡を継ぎ、処刑された兄虎昌の配下をはじめとする100騎を預かり、譜代家老に連なった。昌景の部隊は装備を赤で統一していたことから、「山県の赤備え」と呼ばれたという。駿河江尻城主(静岡市)に就任し、織田・徳川氏と対峙した。長篠の合戦では、徳川軍と激戦を展開し戦死した。
参加団体NTTグループ