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火の軍団

1番隊

地理感覚に優れた領域支配の行政官僚

はらはやとのすけまさたね

原隼人佑昌胤

(?~天正3年5月21日)

信虎に仕えた譜代家老原加賀守昌俊の子で、武田軍の陣立てなどを立案する陣場奉行を命じられたといわれ、また信玄の側近、奉行としても活躍した。信玄の晩年には、山県昌景とともに、武田家の最高職である両職を担ったとされる。昌胤は地理に精通し、初めての場所でも方角を見失わなかったと伝わる。天正3年の長篠の戦いで山県とともに左翼を担当し、徳川軍と激戦の末戦死した。

参加団体甲府市(青少年育成甲府市民会議育成部会)

2番隊

海津城代として信濃統治の一翼を担う

こうさかだんじょうのじょうまさのぶ

高坂弾正忠昌信

(大永7年~天正6年6月14日)

高坂弾正は石和の大百姓春日大隅の子で、信玄に見いだされて近習となり、足軽大将に抜擢、永禄3年(1559)ごろ海津城代に任命されるなど、異例の出世を遂げた。長篠の戦いで、同僚の多くが戦死したことに衝撃を受け、信玄の言行や行動哲学などをまとめた書物を書き上げた。これが『甲陽軍鑑』の原本とされる。その後、上杉景勝と勝頼の同盟交渉役に就任したが、実現しないまま病没した。

参加団体笛吹市

3番隊

合戦の先頭で武勇抜群の信州先方衆

さなだげんたざえもんのじょうのぶつな

真田源太左衛門尉信綱

(天文6年~天正3年5月21日)

真田幸隆の嫡男。信玄の命により、父幸隆とともに上野国白井城を攻略し、同じころ、上野国岩櫃城代にも任ぜられ、上杉謙信の南下に備えた。信玄晩年の合戦には、ほとんど参加しており、その功績により、元亀3年には信濃の武士で、唯一、200騎という最大の兵力を与えられた。天正3年(1575)の長篠の戦いでは、弟昌輝とともに、勝頼を逃がすために奮戦して戦死した。

参加団体コニカミノルタグループ

4番隊

剛勇で名をはせた治国の最高責任者

あまりびぜんのかみとらやす

甘利備前守虎泰

(?~天文17年2月14日)

武田氏の譜代家老で、板垣信方とともに両職という最高職に就任していたとされる重臣。甘利氏は、甲斐源氏の支流にあたり、武田氏を支えて活躍した。武田信虎・信玄二代に仕え、100騎を率いる侍大将でもあった。武田信虎追放時には、板垣とともに信玄擁立に尽力した。天文17年2月、信玄が村上義清と戦い、初めての敗戦を喫した上田原の合戦で板垣とともに戦死した。

参加団体韮崎市

5番隊

36度の功名、41カ所の手傷

おばたやましろのかみとらもり

小幡山城守虎盛

(延徳3年?~永禄4年6月2日)

小幡虎盛は、遠江国出身の浪人で、父日浄とともに武田家に仕官し、騎馬15騎、足軽75人を預かる足軽大将に任じられたという。信虎・信玄二代の重要な作戦のほとんどに参加し、永禄3年(1560)に信濃海津城が完成すると、高坂弾正を補佐役として在城した。虎盛は、川中島の合戦の直前に病没した。「よくみのほどをしれ」と子息に遺言したという。

参加団体中央市

中央市

6番隊

行政・外交・軍事面の中心的人物

やまがたさぶろううひょうえのじょうまさかげ

山県三郎右兵衛尉昌景

(?~天正3年5月21日)

武田家の譜代家老飯富氏の出身で、虎昌の弟。信玄の側近、奉行として活躍した。信玄の命により、名門山県氏の名跡を継ぎ、処刑された兄虎昌の配下をはじめとする100騎を預かり、譜代家老に連なった。昌景の部隊は装備を赤で統一していたことから、「山県の赤備え」と呼ばれたという。駿河江尻城主(静岡市)に就任し、織田・徳川氏と対峙した。長篠の合戦では、徳川軍と激戦を展開し戦死した。

参加団体NTTグループ