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インタビュー 鈴木徹 鈴木徹さんに「自分を表現できる」スポーツの魅力をインタビュー

自分を表現でき、人とつながれるのがスポーツの魅力 リオパラリンピック日本代表の鈴木徹さんが語る“スポーツの力”パラスポーツインタビュー 鈴木徹 走り高跳び選手 SMBC日興証券所属

小さい頃から、スポーツが生活の中心

鈴木さん自身について教えてください。どんな子どもでしたか?

山梨市で生まれ育ち、実家が農家という環境もあり、小さい頃からいつも自然の中を駆け回っていましたね。とにかくスポーツが大好きで、5歳から水泳を始め、小学生の時は水泳を続けながら、野球とバスケットボールの2種目を掛けもっていました。生活の中心がスポーツでしたね。

高校時代はハンドボールの選手として全国レベルで活躍していましたね。

東山梨地区(現山梨市、甲州市)はハンドボールが盛んな地域で、中学の部活を見学した時、おもしろそうだなと思って始めました。やることすべてが楽しくて、中学、高校時代はハンドボールにはまりました。日本代表をめざして、練習に打ち込む日々でしたね。

ハンドボール選手としてさらなる活躍が期待されていた高校3年の時、交通事故に遭い右足を切断。そのリハビリの一環として、走り高跳びと出会ったそうですね。

右足を失っても、もう一度ハンドボールをしたいという思いがあり、まずは走れるようになろうとリハビリを始めました。1年後に走れるようになったんですが、100m走るのに20秒かかっていましたね。
リハビリを続けていたある日、練習していた運動場に高跳びの道具やマットが出しっぱなしになっていたことがあって、遊び感覚で跳んでみたら、いきなり当時の日本記録だった1m50cmを跳べてしまったんです。もともとジャンプは得意で中学3年の時に走り高跳びで1m76cmの記録を残していたので、1m70cmはいけるかなとは思っていたんです。1m65cmどまりでしたけどね。でも日本記録を跳んだ瞬間、「これだな」と思ったんです。「走り高跳びで日本代表をめざそう」、そう決めました。

走り高跳びはゴールのない競技。だからおもしろい

走り高跳びで日本代表をめざそうというのは、どんな思いからだったのですか?

小学生の頃から日本を背負って戦えるスポーツをやろうと思っていたんです。小さい時から憧れるのはプロ野球やJリーグ、NBAなど、すべてスポーツ選手でしたからね。
中学でハンドボールを始めてからは、ハンドで日本代表になるという目標を掲げていました。でも日本代表を目指すのに、種目にこだわりはなかったんです。ジャンプを基本とするスポーツが好きだったので、自分の中ではハンドボールも高跳びも大きな変わりはなくて。走り高跳びと出会って、これで日本代表になるんだという新たな目標ができたんです。

走り高跳びの魅力は?おもしろさは?

1cmの難しさ、奥深さですね。助走の速さ、踏み切りのタイミングなどすべてがうまくいかないと跳ぶことができない。そこがおもしろいですね。それに走り高跳びは残酷なスポーツなんですよ(笑)。自己新記録を出しても、優勝しても、最後は必ず失敗で終わる、嫌な思いで終わるスポーツなんですよね。記録を出したとしても、決してゴールではないんです。だから常に上を追い求め続ける。そして個人競技なので良くも悪くも自分がすべて。そこも魅力ですね。走り高跳びを始めて17年目になりますが、競技への想いは強まるばかりです。

新しいことを始めるのに必要なのは、一歩踏み出す勇気。

走り高跳びで日本人初のパラリンピック出場を果たし、さらに5大会連続入賞という偉業を成し遂げていますが、パラリンピックを通して得たもの、感じたものは?

パラリンピックは僕にとって特別な大会です。重圧、期待、喜び、悲しみなどいろんなドラマがあり、ケガやスランプも含めてパラリンピックでしかできないストーリーができています。パラリンピックを通して競技はもちろんですが、人とのつながりや海外の国々でのふれあいなど、本当に多くの貴重な経験をすることができています。それは競技をしていなければ得られなかったものばかりですね。

スポーツはたくさんのものを与えてくれているのですね。

実は僕は5歳の時にどもりを患いまして、小学生の時にはからかわれるのが嫌で自分からしゃべるのをやめてしまったんです。うまくしゃべれず活発ではなかった僕が、自己を表現できるのがスポーツだったんです。動くことで「うまいね」とほめてもらえたり、周りを喜ばすことができるのがすごくうれしかったですね。年齢も性別も障害も関係なく、自分を表現することができ、周りとつながることができる、それがスポーツの大きな魅力だと思います。

スポーツをしたいけれど始められていない人も多いと思いますが、アドバイスを。

必要なのは一歩踏み出す勇気です。外に出る勇気、新しいことに挑戦してみる勇気を持つことですね。そして何より楽しむことです。山梨県内は障害者スポーツのチームが少なく、情報もまだまだ少ないですが、障害者の方たちも積極的に外に出て情報交換をしながら、仲間を増やし、ぜひスポーツを楽しんでほしいですね。

みんながスポーツを楽しめる総合型クラブをつくりたい

障害者の方たちと接する時は、どう接するのがよいのでしょうか?

障害によってそれぞれだと思いますが、僕自身が感じているのは、一人で外出している人は基本的に自立できていて、日々の生活が訓練でもあるので、あまり手伝いは必要ないと思います。洋服屋さんをイメージしてもらえるといいですね。必要な時は声を掛けます、という感じです。
それから環境的には整っているので、大切なのはその使い方だと思います。障害者用トイレがあっても一般の方が使っていて障害者が使えなくては意味がありません。整えられた環境をいかに使いやすくするかですね。一番大切なのは、お互いを思いやる心だと思います。

最後に今後の目標は?

東京パラリンピックに出場してメダルを獲ることが、第一の目標です。走り高跳びは技術に関しては限界がなく、どこまでも高めていけます。だから引退って何だろうって思いますね。これからもより高いところを目指して頑張っていきます。
夢は健常者も障害者もスポーツを楽しめる総合型のスポーツクラブをつくることです。なかでも今の子どもたちはスポーツをできる子とできない子で二極化しています。それはスポーツをやってきたか、きていないかの違いなんです。専門性も強く、サッカーは抜群に上手いけどほかのスポーツは全くできないという子もいます。僕は小学生のころにいろいろなスポーツを経験していたから、障害を持ってからも経験したスポーツは難なく取り組むことができました。ジュニア世代がいろんなスポーツを楽しめるようなクラブをつくり、支援していきたいと考えています。

鈴木徹プロフィール

1980年、山梨県山梨市生まれ。中学・高校時代ハンドボール部に所属し、全国レベルの選手として活躍。高校3年時に交通事故で右足を切断。リハビリの一環として走り高跳びに出会い、走り高跳びの競技で日本人初のパラリンピック出場を果たす。その後も数々の国際大会で好成績を収め、パラリンピックはシドニー、アテネ、北京、ロンドン、リオデジャネイロの5大会連続で入賞を果たす。2009年から5年間、駿河台大学ハンドボール部監督を務めたほか、自身の経験を活かして全国の学校や企業などで講演活動も積極的に行っている。

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